「自己一致」の大切さ
- 2007-05-16
- 15:06
こんにちは。
以前にも、記したかも知れませんが、今日も改めて「自己一致」の大切さに触れたいと思います。
まず、「自己不一致」状態とはどういう時かと、思い返してみたいと思います。
例えて言えば、「学校(職場)に行きたくないなぁ。」という思いと、「でも、学校(職場)には行かなくてはならないということはよく分かったいるし、学校(職場)に行けば行ったで楽しいこともあるから、行きたくもあるんだよな」というアンビバレント(両価的)な思いが、同時に働いているとします。
そのような時に、実は、心も身体も半分以上かなりの割で「学校(職場)に行きたくない」というネガティブな思いを支持しているのに、「清く、正しく、美しく、逞しく」というポジティブな意識の方に拘りすぎて、目一杯強がったり無理をしたりして、学校(職場)に出かけたような時。こうした時の心の状態を、「自己不一致」状態と呼ぶようです。
この時の正直な思いとしては、心のどこかでは、自分の身体や心のために、今は充分に休養や睡眠をとって、ストレスを癒し心身をリフレッシュさせることが最優先で大切なことが分かっていながら、「こんなことに負けてたまるか」とか、「このくらいのことなら、まだまだ大丈夫」なんて具合に、さらに強がり平気な振りをして無理を重ね、ストレスを蓄積させてしまうような状態とも言えます。
この様なことを考えてみると、どうですか?・・・
こんな風に、その時の自分のより正直な思いに素直に従えずに、ドリンク強壮剤やコーヒーなどの刺激飲料、タバコなどの覚醒作用に頼って、無理に無理を重ねさせようとする自分が、意外と多いと思いませんか?
「今日できることは、明日に残すな!」、「寝ている暇があったら、仕事をこなせ!」、「忙しいのは、みんな同じ。お前だけが休むなんて、甘ったれているんだ!」等々の言葉。
日頃から、周囲の人から投げかけられていませんか? そして、それだけでなく、あなた自身が、心の中で自分自身を叱咤激励し、鞭打って、へとへとに疲れるまで、いや、生活習慣病として相当状態が悪くなるまで、こうした精一杯の言葉をリフレインしてはいないでしょうか?
こんな風に、経済至上主義、経済最優先の世の中で、「頑張ろうとする心」と裏腹に(アンビバレントに)、例えば、男の人であるならば、「あ〜〜〜っ、休みたいよう」、「しばらくのんびりしたいよ〜う」、「もっと自分の楽しみのために時間を使いたいよ〜〜ぅ」、「遊びたいよ〜〜〜ぉ」なんていう思いが自己主張をしたがっているのに、頑張りの影に抑圧しているかもしれませんよね。
そして、女性であるならば、「もう、とにかく競争競争みたいな受験競争や出世競争なんかどうでもいいから、早く素敵な彼氏を作って、温かな家庭をつくりたいな〜〜ぁ」、「もっと、子どものそばにいて、いつでも子どもが安心して帰り着き、学校でのストレスや疲れを癒せるような家庭にしたいなぁ」、「今は、女性であっても共働きが当たり前のような世の中になっているけれど、本当は、もっとゆったりと家庭に居て家事をして、旦那や子どもが気持ちよく過ごせるような家にしていたいのになぁ」などという、受容的な温かな思いがありながら、それらの「女性性」や「母性性」からくる素直な思いを犠牲にし、当然のように「男性性」を優先させて、働き続けざるを得ない女性も数多く居られるのではないでしょうか?
こうした状況も、実は、「自己不一致」状態と言うことができると思います。
経済優先の男性性優位な意識だけに重きを置かざるを得ず、生来子宮を伴って、より受容的に、慈悲的に生きたいと言う思いが心の奥にあっても、そんな思いがあることさえ忘れてしまうほど、本来の性(女性・母性)とのアンバランスを体験し、企業(職場)戦士に身をやつしておられる方も、多いと思います。
昨日は、くしくも、そんな「自己不一致」状態が起因したのではないかと思われるような、痛ましい「母殺し」の事件が起きてしまいました。
近所の方々の、異口同音の「普通の明るい家庭」、「お仕事でも信頼されてバリバリとしごとのできるお母さん」、「成績優秀、スポーツ万能のお子さん」という声。
「いや〜〜ぁ。ごく普通の・・・・・・」という響きが、ぼく個人としては、とても辛く受け止められます。
日本国民が全て、この「自己不一致状態にある」ことが「普通」と感じられ、思い込まれている。そのことが、悲惨さをより増幅しているように感じられるのです。
どんなに優秀でないお母さんでもいい。活躍するお母さんでなくてもいい。ただただ、目の前に居る我が子としての「ぼく」を最優先に、見つめ続けていて欲しかった。愛して欲しかった。甘えさせて欲しかった。わがまま言わせて欲しかった。・・・なのになのに・・・、ぼくは、お母さんの勲章のような成績優秀・スポーツ万能な子どもでなければならなかったし、期待に応えようともしてきた。心の中で辛く苦しい時には、お母さんに甘えたかったし、時には思いっきり抵抗をしそれも受け止めてもらいたかった。けれど、それもしてもらえてこなかった。だから、ただ普通の、ぼくをバカ可愛がって甘えさせてくれる、そんなお母さんで居て欲しかった。・・・なんだか、もう疲れっちゃったなぁ・・・。
そんな少年の声が聞こえてきそうです。
母親も、長男としての息子も、どちらも「自己不一致」的に、頑張りは示し続けてきたけれど、アンビバレントに正直な、弱さや甘さや情けなさなどを表すことが不器用になり、その不器用な母の命を絶つことで不器用な自分に終止符を打つ。そんなことでしか、その苦悩を表せなかった少年の不器用さが、さらにまた切なく辛く心に響きます。
ぼくたちは、ここで立ち止まり、経済優先がために『自由』に名を借りた「自分勝手経済(主義)」に翻弄され、「自己不一致」状態に陥っている我が身に気づき直し、「そうだよな、何をさておいても、家庭が、子どもが大事だよな。大切にしたいよな。」という抑圧された心の呟きに耳を傾け、純粋に、正直に、素直になってゆく時を迎えているような気がします。そして、そんな人としての自然な欲求に素直に、純粋に、誠実に応えていく心の営みが、「自己一致」と呼ぶのだと思います。
これからは、「〜〜〜ねばならない」という表面的で論理思考的な思いよりも、心の奥底から「やっぱり今は、〜〜〜したい」という感性や直感、それらに伴う感情を大切にした思い(欲求)を最優先にさせ、素直に表現し行動に移していきましょう。
そして、「〜〜〜ねばならないこと」さえも、こうした「自己一致」的な生き方から生まれる余裕から、自然と「〜〜〜したいこと」へと変化させ、意欲的に取り組めるようにしていきましょう。
そのように、生活の営みを変化させていくことが、既に今、大人にも子どもにも、とても大切な時が来ていると、高らかに宣言したいと思います。
今回の事件も含めて、次から次へと起こる痛ましい殺人事件は、こうした気付きへの、シグナルとも言えると思います。あまりにも命の犠牲の大きいシグナルですが、こうした命に報いるためにも、ぼくら一人ひとりが、今真剣に、「自分が自己不一致状態に陥り、それが普通だと思い込んでいないか」心の点検をし、一日でも、一秒でも早く健全で自然な「自己一致」状態に戻していけるよう、肩の力を抜いて、一歩一歩着実に歩んでゆきたい。本当に、心の奥深くからそう思います。



コメント
生徒指導のような生活をしています。
自分の時間は、昼間に寝てばかりです。
ここへ来て、複雑な事件が起きてつい聞き耳を立
てている自分がいます。ショックな事件ばかりで
疲れます。
何でと真剣に考えてしまうのです。同じような歳
の子を持つ親には嫌な話です。ゆっくりパソコン
に向かい合いたいです。
きない季節とか、月と天候とかあるのでしょうか
ね?
何かしらの切っ掛けがあれば、時を選ばず、場所を在らばず出現する。そうした、緊迫感、ピリピリ感を持った世の中が、今の日本であると思います。
これらは決して人事ではなく、私個人の問題であることが、より身近に感じられると、解決の糸口も見えてくると思うのです。
皆が加害者で、また皆が被害者。
仏教で言うところの“縁起”ということを考えれば、どんな事件も問題も人事ではない、辿り辿っていけば、必ず、私個人とつながって生起している。後は、そのことの重みにどれだけ気付き、受け止め、身近なところから解決して行こうと歩みだせるか。
そのことこそが、ぼくら大人に、唯今、問われているのだと思います。
何も難しいことではない。まず自分自身を心から許し信じ、次には、周囲の夫を妻を、子ども一人ひとりを、お年寄り一人ひとりを、より自分のことのように思いやり、許し、信じ合えるのか、そのことから再生を始めればいいのです。
学校も、職場も、地域も、二の次、三の次。
まずは、せっかく授かった家族の中で、そんな実践を、一つひとつ始めてみましょうよ。