「大器晩成」について

こんばんは。
長らく、間を空けてしまいました。
もう謝罪するのも申し訳ないので、いきなり、「『大器晩成』について」ということで、

以前まで、ぼくは、「大器」というのは、人間としてとても立派な方が、努力によって勝ち得ていく状態かなと思っていました。

しかし、心のことを学ぶ中で、どうもそうでは無さそうであることに気付かされてきた気がします。

各領域や地域で、物知り的な立派な方は居られると思います。
そのような方々は、その道では、本当に尊敬されるべき豊富な知識と指導力を持っておられるのだと思います。

でも、その道の権威者の中には、「その道のだけの小さな器」の中で、密度濃く知識を備えておられることはあっても、その道から外れてしまったり、常識的な社会生活から逸れてしまった様な場合には、突如として大きな不安に駆られ自信を失い、深いうつ状態に陥る方が居られるようにも思います。

それでは、「大器」と呼ばれるような方はどのような人なのでしょうか?

ぼくは、意外とそのような方は、順調に世の中を渡っておられる方ではなく、自分の思い通りにだけはことが進まず、時には、人間の表の社会に隠れた影の部分をも生きなければならないような境遇をも体験し、人間として在ってはならないかのような苦悩を繰り返しながら、それを乗り越えるような経験を積み重ねてきているような方ではないかと思います。

そのような人生の中で、人間である自分の限界や小ささを自覚させられ、大宇宙の大いなる生命力に対して、いつでも謙虚であり、周囲の人の一人ひとりに対して絶対平等的に尊厳を認められる人であるような気がします。

ぼくもそうなのですが(特に若い頃はそうでした)、心のどこかで自分が一番正しい人間でありたいと熱望し、自分の正しさ以外の考え方は、どうしても素直に認められないような心が働きます。
そして、自分のテリトリーに周囲の人を入れ込もうと必死な思いの時期がありました。

若い頃というのは多かれ少なかれ、どうしても自分中心に正しさを確立したいと焦ってしまい、空回りをしてしまいがちです。そんな状態は、どんなに立派に見える人でも「小器」の域を抜け出すことができないのだと思います。

しかし、意外と、立派でもなく派手でもなく、人生に対して検挙にかつ真摯に向き合い、自ら望んだ訳でもない葛藤や苦悩の渦に呑まれそうになりながらも、何とか自分の信じる道を探し生き続けることができるような人が、「大器」になどなろうと思ってもいないのに、気が付いてみれば「大器」になっていた・・・というような方こそが、「大器」であるように思うのです。

思春期の子どもの葛藤に端を発し、自分とは個性の違う子どもを受け入れるまでに、長く苦しい葛藤を強いられ、ありのままの我が子を受け入れられるようになった母親。
嫁と姑の葛藤の中で、自分は自分として自尊心を回復し自己肯定感を強めてよいんだということに気付くのと同時に、相手は相手として、全く自分と絶対平等的なその人の人生として認められて好いんだということに気付かされていくお嫁さん。
頑固で、常々自分が父親であるという威厳を笠に来て、子どもを見下しにかかるような父親を持った青年が、やはり自分は自分として、親とは全く違った人格や個性を持った人間なんだ自尊心を高め、逆に、そのように虚勢を張るしか父親自身が強さを示せないような事情を思いやり、その辛さを認めてあげられるようになった、そんな息子。

自分の正しさだけに閉じこもって反目しあうような関係を克服し、互いの存在を認め合い、許し合い、信じ合えるような関係へと再生させられる時、人は、知らず知らずの内に「大器」となっていくんだと思います。

そうしてみると、自分の人生をかけて多くの人の存在を肯定的に捉え、信じ合えるようになっていくことは、誰にも可能性として与えられているのだし、誰でもが、「大器」となっていけるんだと思います。
人間としての限界や、「晩成」的に、人生の後半の課題として後送りにされようとも・・・・。

何よりも大切な 「自尊心」

こんばんは。
昨日は、なんて好い秋晴れの一日だったことでしょう。

祝日ではあったのですが、クライアントさんの求めを最優先にさせていただき、朝の8時30分から夕方の5時まで、三つのケースを受け入れさせていただき、夜の9時から11時30分まで、当談話室あての電話カウンセリングをさせていただき、とても充実した一日でした。
で、さすがにちょっと疲れました。

とは言うものの、こうして信頼していただき、実践させていただけることは、至極、幸せなことだと思います。皆さんに、感謝です。

さて、そんな中で、今日のテーマは、『何よりも大切な「自尊心」』ということにさせていただきました。

カウンセリングの目的を、一言で言い直すならば、「自尊心」の確立、回復ということになるかと思います。

皆さんは、真の意味で、「自尊心」を持てていると思われますか?

ぼくは、今、張ったりでも強がりでもなく、胸を張って「持てている」と宣言したく思います。

教員であった以前のぼくは、持てていませんでした。

常に、周囲の評価が気になり、その評価が、自分の期待通り思い通りでないとすると、すぐに自己嫌悪に陥り、自虐的とまで言っていいほどに自己否定的な言葉を、心の中でリフレインすることが多かったように思います。

周囲の期待に応えきれない自分。
自分の理想通りになれない自分。
周囲の目が気になってしまって、素直になれずに、不器用なまま強がっていた自分。
自分の本心よりも、母親の期待を優先させ続け疲れきってしまっていた自分。
・・・・・・・・・
等など、数え始めればきりがないほど、情けなく自分を痛めつけ続けていた自分が居たような気がします。

しかし、いつしかそんな自分自身に疲れ切り、その古い自分の殻を脱ぎ捨てるときが訪れました。
心身症に正面から向き合い、カウンセリングを受けながら、自分の良いところも、悪いところも、ぜ〜〜んぶ自分の一部として引き受け、受容し、意識の中に統合していく作業が、その脱皮の作業でした。

そして、その「自己再生」の脱皮を終えてみると、周囲の期待に応えきれず、自分の理想通りになりきれず、不器用なまま疲れ切るまで懸命に生きていた自分が、ありのままに尊ばれるべき存在であることに、気付かされました。

相田みつをさんの、「人間だもの・・・」の世界です。

この地球上に、何十億いるか知れない人間一人ひとりが、全てこの地球上において平等に尊ばれるべく、生命を授けられて生きている。
人間の自分勝手で浅墓な思量による差別的見地など、何の役にも立たないほどに、すでに、大きな宇宙生命の営みの中に、尊ばれるべくして生命を授けられ居るんだということを、心底知らされてきた思いがするのです。

お釈迦様が、お生まれになった直後に、片手の人差し指一本を挙げ、「天上天下 唯我独尊」(てんじょうてんげゆいがどくそん)と、仰られたという逸話が伝えられています。
事実として、そのようなことがあったかどうかを越えて、この逸話の指し示してくださっている意味は、ぼくら人間にとって、明らかに認識すべき心の目標のような気がしてなりません。

お釈迦様は、ご自身のことを言ったのみならず、人類の一人ひとりの存在の尊さについても伝えてくれているのだと思います。

「地上の上にも、地上の下にも、私は唯独り、尊ばれるべくここに居る」
決して、「格好良く立派にならなければ、尊ばれない」というのではないと思います。
既に、この世に、人間として生命を受け、好いところも悪いところもひっくるめて、その人なりの人生を精一杯きていること自体が、尊ばれるべきことであると、教えて下さっているのだと思うのです。

「ぼくは、ぼくで好いんだ」「私は、私で好いんだ」「俺は、俺で好いんだ」、みんなが一人ひとりこのように思い、思い合えることで、一歩ずつ、平等で平和な世界に近づいていくことを、「自尊心」という言葉が、ぼくらに伝え続けてくれていると、強く信じたいと思います。

仮面(ペルソナ)を、はずせていますか?


こんばんは。
今日は、皆さんのお宅の空は、いかがだったでしょうか?
この八ヶ岳南麓の、富士見高原の空は、とても秋らしく、真っ青な空でした。
日に日に秋が深まっていく中で、「ぼくの好きな、紅葉と青い空、雪山と青い空の鮮やかな景色を楽しめる季節が、もうそこまで来ているのだな」と思うと、心が浮き浮き弾んできます。
お金をかけずに、近隣に足を延ばしただけで、富士山や甲斐駒ケ岳を中心とする南アルプス、それに様々な表情を見せてくれる八ヶ岳連峰に出会うことができるので、とても得した気分にもなるのです。

さて、今日のお題は『仮面(ペルソナ)を、はずせていますか?』ということで、皆さんと意見を交わせればと思います。

この「ペルソナ(仮面)」という言葉は、ユング深層心理学の中でよく使われる言葉です。
ぼくらは、本当に個人的で、誰にも邪魔されずに羽を伸ばせるような場所では、素顔の自分を見せることができます。でも、こんな所でさえも、どこか、自分の自分自身への思い込みの仮面を付けている時もあるかもしれません。
また、家族に囲まれている時にも、自分の家であるのに、ついついそれぞれが、親としての、子どもとしての、夫としての、妻としての仮面を付けていながら、自分ではそのことに気付かないで居ることもあるでしょう。

ぼくら人間が生きていく上で、このペルソナは、とても重要な役割を担ってくれています。
大人でも子どもでも、家を一歩出る時に、よそ行きの顔(仮面)を持っていないと、とても傷つきやすく危険な目にあってしまうことがあるでしょう。家の人と同じような気持ちで、気安く掛けた言葉に対し、「礼儀知らず」「世間知らず」などという批判的な言葉を返されてしまい、不意に傷ついてしまうようなことがあることを一つとってみても、ご理解いただけるでしょう。

ぼく自身の、経験から言えば、ぼくは教員時代、「教師」というペルソナをはずすことができていなかったように思います。
家に帰っても、そうしたくないのに、教師面(づら)をしてしまう。教師として学び知ったことこそが一番正しいんだと思い込み、妻にも、子どもにも、ぼくの両親にも、偉そうに価値観を押し付け続けていた自分がいました。

これで、家庭が平和になるのならば良いのですが、気がついてみれば、全くの逆です。家族のぼく以外の一人ひとりが、みんな、ぼくの価値観の枠の中に押し込められ、成長するにつれてより窮屈さを感じ、苦しそうな信号が、あちらこちらから起きてきたのです。
さらに、ぼく自身も、『清く、正しく、美しく』という教師的な仮面をはずしたくてもはずせなくなり、自らも自分の『正しさ』の枠の中にこもって、窒息寸前までいってしまいました。
その果てに行き着いたのが、心身症による、心の葛藤期です。

思い返せば、この時、このペルソナは、『よい教師』だけではなく、『よい息子』『よい大人』『よい男』『よい夫』『よい父親』『よい地域民』・・・という幾重にも『よい人間』的な要素で固めようとされたものであった気がします。

しかし、ユング深層心理学は、このペルソナが、できるだけ素顔に近く、取り外し自在であるようにしておくことの大切さを、説いてくれています。

「できるだけ素顔に近いペルソナ」というのは、善悪を裏表にもった人間としての自分を、最大限肯定し、自己肯定感や自尊心を持つことができる状態を示していると思います。
「そして、取り外し自在なペルソナ」というのは、家を一歩出た「学校での自分」、「職場での自分」などで、学校や職場に合ったペルソナを8時間前後つけていたとしても、家に帰ってからの活動時間には、それらの仮面を気軽にはずし、より寛いだ自分の顔に戻ることができるようにしておきたいということでよいかと思います。

さらに、家庭においても、当然のことながら、妻や夫の顔、父や母の顔、子どもとしての顔など、家庭内のポジションによるペルソナは、それなりにつけていることもあるでしょう。
しかし、本当に一人になれる時間やお風呂などで寛いでいる時間などには、是非とも、より自分らしい自分の顔に戻れるようで居て欲しい気がします。

そして、人間にとって、一番仮面をはずしたときの姿が、爆睡状態の時であるのかもしれません。この時は、本当に無防備にならざるをえませんものね。
中には、睡眠の間でさえも、仕事や学生としての仮面をはずしきることができずに、深い眠りを得ることができない人も居て、心の疲労を蓄積されている人も居られますが・・・・。

ともあれ、家庭というものは、家族一人ひとりが、自由自在にその時々の自分らしい自分の顔に戻れるような、温かで子宮にも似た場所でありたいですね。
そのような場所でゆっくりと羽を休め、自己肯定感や自尊心を深められることにより、きっと、家族一人ひとりは、「できるだけ素顔に近く取り外しが自在なペルソナ」をつけて、戦場にも例えられる学校や職場へと出かけ、活躍をして帰ってくることができるのでしょうね。

人間としての 「本心」 は どこに?

皆さん、本当にすみません。
また、このような月二回ペースの書き込みになってしまって・・・。

「なんだよ、そんなに謝るぐらいならば、もっと小まめに書き込む努力をしろよ!」なんて、お叱りの言葉が聞えてきそうな気がします。・・・・が、お許しください。

少し、言い訳をさせていただきますと、このブログ以外に、メールの遣り取りの中でも、カウンセリングのクライエントさんと遣り取りをさせていただきながら、共に育ち合わせていただいております。
また、某機関の夜間電話相談(pm6:00〜10:00)なども、平日2〜3日の割でさせていただいており、時には報告書などもまとめなければならない時もあるので、ぼくの力の限界で、ブログを勧められない時も多々あり、訪れてくださる皆さんには、本当にご迷惑をおかけしています。

さて、今日の御題は、「人間としての 『本心』 は どこに?」とさせていただきました。

いったいぜんたい、人間には、自分の「本心」を、本当に分かり自覚して生きている人が、どれ程いるのでしょうか?
ぼくは、自分も含めて、「本心」を分かって生きている人って、ことに現代人には、ほとんど居ないんじゃないかと思います。

現代の日本においては、「本心」を知ることが、ある意味タブー視されているんじゃないかと思います。
「忙しいなぁ。もっと、家族のことを思いやり、ゆっくり、じっくりと温かな家庭を築きたいよなぁ」などと、心の中で「本心」らしきものが燻ぶっていたとしても、
「う〜〜ん。いやいや、そんな甘いことは言っていられない。このグローバル社会の中で、個人の我が侭なのど言っていられるか。プロとしてお金を稼いでいる以上、会社が優先で当たり前じゃないか!」
と、そんな風に、強がり、平気な振りをして、頑張り続ける自分の意識が、「本心」らしきものさえも、即刻打消し、無意識の方に追いやってしまう。

また、男女の関係においても、それが恋人同士であろうが、夫婦であろうが、「本心」的には、もっともっと、幾つになっても男であり、女でありたいと思い続け、仲睦まじくありたいと願っているはずなのに、
「こんな年にもなって、恋でも、愛でもありますまい。夫婦なんてものは、所詮 父や母、妻や夫、嫁や婿としての役割さえ、世間並みにこなしていれば、それで好いんだし、この年になってみれば、それ以上のことが望めるはずもない。」・・・と、変にクールにかつドライに成りすぎてしまう。

子どもとの関係においても、もっともっとじっくりと関わり、寄添い、甘えさせてあげたり、安心させてあげたりしたい気持ちは、心のどこかにありながらも、
「今の世の中、共働きをしていれば、そんな甘いことは言っていられない。そして、そのような厳しい世の中に送り出すことを考えれば、子どもにだって厳しさをこそ伝えるのが、親の役目。経済優先の社会のルールをこそ教える必要があり、家庭でゆっくり、のんびり・・・なんてことは、このご時勢に言っていられない。」・・・と、こんな思いに追い立てられ、ついつい子どもを、大人の思い通りの枠に閉じ込めようとしてしまう。

ここにあげた例は、ほんの氷山の一角でしかないと思います。

人間として、親として、教師として、どのように生きることが、また生きることを教え伝えることが良いのか?
その大切なことを、もっと思いやりの心を働かせて、じっくり、ゆっくりと考えたり、伝えたりして好いはずなのに、そうすることができないまま、忙殺の日々を過ごしているのが、ぼくたち現代人の姿なのではないでしょうか?

今一度、「自分の人間としての『本心』は、いったいどこにあるのか?」、ここで、ゆっくり、じっくりと省みてみませんか?

会社人間であるよりは、本当は、温かな家族をこそ優先させて築いていきたいと、心より願うんだったら、もっともっと、そう主張をしましょうよ。

クールでドライな夫婦関係に危機感を感じているとしたら、好いじゃないですか、もっともっと、照れも恥ずかしさも乗り越えて、「この年」からでも、若い頃のような、ホットでウェッティーな関係を復活させましょうよ。

そして、心から、目の前の子どもたちを愛おしく思う気持ちが、片鱗でも残っているならば、そこに光を当て直し、大人側の常識を脇において、子どもたちに目いっぱい寄り添い続けてみましょうよ。
ご両親でも、先生方でも構いませんから・・・。

ぼくは思うんです。
人間は、心の奥の奥の方に、誰だって願い求める本当の幸福への切なる願いがあるんだっていうことを!

例えそれが、表面的に、幸せ絶頂の人であろうと、犯罪者にまで追い詰められた人であろうと、人間である限り、誰もが平等に願い続ける本当の幸せ。
時に歪みながら、時に後退しているように見えながらも、人間全体として、その願いの実現に向けて、じわりじわりと近づいて行こうとしている。

もしかすると、人間には、互いに気付いている以上に、蘇生させていきたいという大きな力が働いているのかもしれないと思うのです。

「戦争は、二度と繰り返したくない」と叫ぶ人は増えていくでしょうけれども、「本心」として、人間として、「どんどん戦争を進めてゆきたい」と思う人は、戦前の世の中に比べて、着実に減少していると思います。
その事だけを取ってみても、人間の「本心」からくる秘めたる可能性を、信じられる気がしませんか?

自己肯定

こんばんは。
今月、最初の書き込みです。

そして、今日のテーマは、至ってシンプルに「自己肯定」としました。

このテーマを挙げた理由は、カウンセリングの実践の中で、どんな心の状態であろうと、とにかく来談者の方々に共通に言えることは、この「自己肯定」の弱さだと思うからです。

自己肯定と言えば、皆さんの中には、
「どんな自分であっても、悪いことをしてしまう自分であっても、何でもかんでも肯定などしたものならば、人間、向上もしなくなるし、世の中は、荒れ放題になってしまうのではないか・・・?」
という風に、懸念を感じられる方々もあろうかと思います。

人間は、向上心を持った生き物でもあります。
でも、片や、自暴自棄に苛まれ、向上心どころか心が荒れすさんだ状態に陥ることもある生き物でもあります。

ここで、ぼくが皆さんと確認したいのは、自己肯定する時の、その尺度かもしれません。

現実を離れた理想に向けて、向上していこうとすることが『善』と考える人々は、「簡単に自己肯定などしてはいけない」と、声高に戒めるかもしれません。
また、心荒み、自暴自棄になってしまっている人に向けては、「お前たちなど、到底肯定などできない」と、強い主張を繰り返すでしょう。

でも、そのどちらの主張も、どうしても相対的に比べて、人間の善し悪しを決め付けたいという心の働きであるような気がするのです。
そして、自分は正しく、自分に同調しない人は正しくないと決め付けたい心の働きでもある気がします。

ここで大切になる尺度。
それは、あえて「仏の智慧」と言わせていただきます。

相対的に、表面上の善し悪しを問う心の動きではありません。
「絶対平等」的に、どんな人間でも、善いところがあれば悪いところもある、器用なところもあれば不器用なところもある。
互いが互いの得手不得手を補い合い、バランスを取り合い、磨き合いながら生活を共にしあう仲間として、未熟さを持ち合わせた人間同士として、力を合わせていくことに重きを置くべき生き物であると思うのです。

そんな、互いが互いを批判し合い、揚げ足を取り合っている暇はないのです。
自分にだって批判されるべき点や揚げ足を取られて当たり前なところなど、数え切れないほどもある人間であることを受け入れ、認め、許し合っていく。

格好の好いだけの人間には成りきれない、人間らしい人間同士として、
格好の好いだけの自分には成りきれない、人間らしい自分として、
好いところも悪いところも全て丸ごと、ひっくるめて肯定(自己肯定)していく、肯定(他者肯定)し合っていく。
そんなところからの出発こそが、より理想的で平和な世の中の実現へ向けての確かな歩みではないかと、真面目に受け止めています。

そこで具体的には、これまでどうしても自分の理想に照らし合わせて否定的にしか見えなかったご自分自身を、周囲のご家族を、身近な者たちを、改めて肯定しなおしてみてください。
それぞれが不恰好に、でも懸命に自分の人生を歩んでいる者同士として、慈しみ合ってみてください。

そんな不恰好さや、未熟さが、既に理想への一歩として、今ここにあるんだということを、より確かに受け止めなおして欲しいと思います。
格好の好いところ、そして次に来る格好の悪いところ、さらにはその停滞期、そんな各々の段階が全て、理想へと続く一段一段であると肯定することによって、より望ましい希望の実現へと向かっていくのではないかと思います。

う〜〜〜ん。抽象的な表現になってしまったので、伝えたいことが伝わったでしょうか。伝わった人も伝わらなかった人も、コメントにて声を上げてください。

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長野県諏訪のカウンセリングルーム「八ヶ岳南麓 子育て・人生談話室」のブログです