みんな違って、みんな好い!

こんばんは。

今日は、改めて『みんな違って、みんな好い!』というテーマについて、記してみたいと思います。

一昨日、昨日は、感動しましたよね。
日本、女子ソフトボールの上野投手の活躍。3試合連続の完投。
そして、その力投の甲斐があっての金メダル奪取。

また、先日の北島康介選手の平泳ぎ、100メートル、200メートルでの金メダル奪取の姿、これも感動しました。

オリンピックでの、こうしたアスリート一人ひとりの活躍は、とても素晴らしいことであると思うし、感動を与えてくれたことに感謝もし、敬意も表したいと思います。

でも、ここで私たち一人が忘れてならないのは、こうしてメジャーに活躍している人間も、例えば、今現在、家の中で引きこもらざるを得ない人生を懸命に生きているその青年も、人間として同じ価値を持って生まれ生きているんだということだと思います。

たまたま、生まれつきの個性や生まれついた家庭や環境が、アスリートたちをオリンピックへと導いてくれたということであって、
生まれつきの個性や生まれついた家庭や環境が、相対的に恵まれずに、引きこもりという苦難のなかで懸命に生きている、その人の人生は人生として、オリンピックのアスリートと同等に尊ばれるべきものだと思うのです。

オリンピック選手は、メディアも行政も注目をして盛り立て、その人がより生き易そうに、また、期待をした活躍をしてくれるように援助をしてもらえます。そこに、その人の個人的な努力があったからだ・・・と言われるかもしれません。
しかし、引きこもらざるを得ないようなその人だって、苦悩する、恐怖する、動揺するというところに、無意識的に力を心的エネルギーを注ぎ込まざるを得ないほど本当に苦労をしているのです。
でも、こうした青年は、逆に注目を向けられることもなく、ひっそりと孤独の中に居続けさせられているのも、この社会の一面です。

メジャーに目立つその人たちの存在と同等に、引きこもらざるを得ず苦悩の淵を懸命に生き続けさせられているその人にも、周囲の者の、地域行政の、又はメディアの目が行き届き、その一人ひとりの苦悩の思いに耳を傾けることができるならば、アスリートの金メダルと同様、その人の人生の輝かしい姿を目にすることができるようになるはずです。

そこで思い出すのは、やはり「みんな違って みんな好い」の言葉です。
この絶対平等観に裏打ちされたような人間愛の言葉こそが、これからの日本社会の、世界中の国々の目指すべき指標のように思います。

上野投手も、北島選手も、その人との人生として尊ばれるべきことは間違いありません。
しかし、私は私として、貴方は貴方として、そして、貴方のご家族の一人ひとりはその人として、全てが、上野投手や北島選手と同等に、自分の人生を懸命に生きている一人の人間として尊ばれるべきなのです。

ぼくは、今回のオリンピックから、このようなことを学んだ気がします。

人生は、オール“はなまる”

暑中お見舞い申し上げます。

そして、こんばんは。
月日が流れるのは早いもので、8月も半分が過ぎようとしています。
小学生の頃には、夏休みの一日一日がとても長く、「こんなことをしようか、あんなことをしようか」と楽しみに考えて、
「まだ、夏休みも5日が過ぎただけだぞ。・・・・まだ10日残っているぞ。・・・あと5日どんなふうに過ごそうかな?・・・」なんていう風に、期待を込めて、じっくりゆっくり歩んでいた気がします。

しかし、中年期を迎えて感じさせられるのは、「一日の、一週間の、一ヶ月の、一年の過ぎるのが、こんなにも早かったか・・・」という思いです。
それはそれで充実しているという証でもあるのかもしれませんが、子どもの時のように新鮮な感動を求めて、一日一日をじっくりゆっくりと歩んでみたいものだなぁと、心のどこかで確かに思うこともあります。

さて、今日は、「人生は、オール“はなまる”」ということをテーマに、記してみたいと思います。

ぼくは、カウンセリング時に「心のバイオリズム(好・不調の波)」という話題を提供させてもらっています。
こうした波は、実際には、誰もが持っています。そして恐らく誰一人として、他の人と同じ波形をしている人は居ないでしょう。
その人が固有に持つ、この世に唯一の波。

生まれてこれまでも、今も、これからも、ずうっと命ある限り独自の波形を形作っていくのだと思います。

しかし、ぼくらは人間。
心のバイオリズムの好調の「山」は喜んで受け入れられるし、できるだけ長続きさせようとします。時にはドリンク剤などを飲用し、無理を強いながら持続させようとします。
こうした好調の山には、“二重まる”や“はなまる”をつけて、自己肯定感や自信を高めようとします。

でも、一度、不調期の「谷」に入ってしまうと、その途端に不安になり、自信を失い、“△”“×印”をつけたくなってしまいます。
「こんな自分は駄目だ・・・」、「こんな自分じゃなかったはずなのに・・・」などと、自分を責めてみたり否定してみたくなるのも、こうした時だと思います。

これらのことは、自分に対してだけではなく、自分の子どもや周囲の人に対しても同じように評価を下してしまう事にも通じて言えることだと思います。
身近な周囲の人に対しても、自分が安心したい為に、好調を持続してもらいたい、できるならば一生不調な時など来て欲しくない、などと勝手な期待や願いを持ってしまいます。

でも、辛いのは、先ほども触れたようにぼくらは人間。
好調期を一定に長く持続できるような、ロボットでも、スーパーマンでも、神様でも、仏様でもない。
好調期があれば、そこで溜めた心身のストレスを癒すべく、必ず、不調期が訪れます。
極々自然に、訪れるのです。

それも、ぼくら人智の及ばない、宇宙生命全体の無意識的なリズムや環境の変化に伴うリズムの影響を複合的に受けながら、こちらの思惑・計らいを嘲笑うかのように、思いもよらない時に訪れることも少なくありません。

でも、それも極々自然、極々当然。
個人個人の思惑や計らいには、大よそ無理や傲慢さなどが含まれ、自ずとストレスの蓄積を生むからです。
そのように蓄積したストレスを癒し、自然な波として好調期を迎え入れるためには、誰にも必ず訪れる不調期を、嫌わないことが肝要です。

好調期に“二重まる”を挙げたかったら、尚更のこと、その間に蓄積したストレスを癒してくれる不調期には“はなまる”をあげてください。
そうすれば、自然な不調期の波(谷)は、それ程深まらずに早めに底を打ち、好調期へと向かいます。

だから、ぼくはあえて、皆さんにお願いします。
これからの生活全般の中で、どんなご自分に出会おうとも、どんなご自分が出現しようとも、全てのご自分に“はなまる”を贈呈して欲しいと思います。

心理カウンセリングの素晴らしさ!

こんばんは。
このところ、毎回の謝罪で恐縮です。ここに訪れてくださっている皆さん、間隔が空いてしまい、本当に申し訳ありません。

いよいよ、夏真っ盛りの8月に突入しました。
朝晩は、幾分涼しさを味わえる富士見高原でも、昼間の暑さにはあてられてしまいます。

さて、ここに来て「小池さんに、お会いできて、本当に良かったと思います」と仰ってくださるクライアントさんが続いているため、驕ることなく、心理カウンセリングの素晴らしさについて、振り返ってみたいと思います。

心理カウンセリングにおいては、来談されるまでは、「自己否定感」にだけ苛まれて、ご自分でご自分を傷つけ続けてきたようなクライアントさんが、
その辛さを、私のような初対面の者にも、素直に、正直に語ってくださり、
その語ってくださった内容をもとに、助言をさせていただいたり語り合わせていただいたりする中で、
本当に、真実として、「自己肯定感」を持ち始めてくださり、徐々に、その「自己肯定感」を深めていってくださるのです。

多くの場合、その転換はとても劇的に感じられます。

来室される時の表情やたたずまいは、とても自信無さ気にお見受けできますし、実際に、うつむいたままの方もお出でになります。

しかし、皆さんが語られる内容が、人間として在ってはならない心情ではなく、その方の環境や生育暦などを伺えば、逆に人間として自然に湧き起こる、在って良いこととして受け止めさせていただく中で、安心を取り戻し、自信を持ち始めてくださいます。

相対的に、周囲の人と比べて「自己否定感」を強めてくるしんでこられたクライアントさんが、ご自分の生命を含めて、絶対平等的に「自己の尊厳」を守られるべき人間であることに気付き始めることによって、元気を取り戻されていきます。

心理カウンセラーのぼく自身は、クライアントさんのそうした「自己再生」の過程に寄り添わせていただき、ぼく自身の心を、その一回一回ごとに柔らかく拡げさせていただいているにも拘らず、逆に、信頼を深めていただき、自尊心を高め、自信を高めていってくださるクライアントさんから、「小池さんにお会いできて、本当に良かったです」というような、最高の言葉を投げかけていただけるのです。

クライアントさんは、クライアントさんとして元々心の中に秘めて持たれている自己再生の力を発揮されながら、自ら心を拡げ安心を深めていかれるのですが、そうした劇的なプロセスに寄り添わせてもらえる、この心理カウンセリング。
その素晴らしさを、改めて皆さんと共有させてもらいたいという思いでいっぱいです。

まだ出会うことのできていない、自己否定感に苦悩されているクライアントさんとも、いつか必ずお会いできる日を、今から楽しみに待たせてもらいたいと思います。

子どもは、人間は、信じるに足る!!

皆さん、こんばんは。
今回も、間がとても空いてしまいました。言い訳はいたしません。
只ただ、陳謝、陳謝のみです。

そこで、早速今日のテーマです。
「子どもは、人間は、信じるに足る!!」というお題です。

最近も、カウンセリングの実践において、このことを痛切に感じるようになりました。

このように、子どもを、人を信じようとする時、ぼくは、決してこちらの色眼鏡や偏見を持ってはいけないような気がします。

どんなに、不登校状態で苦しんでいようとも、どんなに、重い障害を背負っていようとも、その子どもにも、人にも、「人間としてできることがあるし、すでに、やっていることがある」と思うのです。

ある高校の子どもさんが、不登校でありながらも料理が大好きで、得意だとします。
そして、そのことにおいては本やインターネットで真剣に研究し、お家の方に進んでお昼を提供してくれているとしましょう。

また、ある高校の子どもさんは、ちょっとやんちゃで、お家の方を困らせているとしましょう。
しかし、その彼女が、すでに、大人顔負けのようなメイクアップを、これまた雑誌などで、真剣に研究し、自分にも友だちにも施せるとしましょう。

こんな時、一般の、何も分からない大人たちは、どのように評価するでしょうか?
「全く、学校にも行かないで・・・・」とか、
「全く、子どものくせに、オシャレばかり気にして、もっと勉強などやることがあるだろう?」とか、
まるで、学校に行くことだけが、そこで優秀な成績を収めることだけが、大切かのように強く思い込まされている子どもたち。そして、大人たち。

そんな中で、その子どもたち自身が、すでに、自分の強い興味・関心や特技を身につけて居始めているにもかかわらず、「そんなのは、自信にしても仕方がないんじゃないだろうか?」などと、『普通』になれない自分を、責め続けているような場合さえあります。

でも、ぼくは思うんです。
こんな風に、誰でも持っている、人間としての力、可能性、興味・関心。
それに熱中し始め、力をつけ始めていること自体を、充分に自信として好いんじゃないかと・・・。

一般的に言って、最低限の読み書き計算あたりができていれば、難しい微分や積分、古文や漢文、世界史や日本史、化学や物理、外国語・・・・、それらのことが習得できなくたって、自分らしさを生かせる職場に就職し役立つようになったり、家庭を持って温かな心で子育てをすることはできると思うんです。

すでに、思いやりの心や、優しさ、それにお互いを許し合い信じあうことのできる心を持ったぼくたち人間。
苦しさや悩みが多ければ多いほど、そのような心がより広く、深く耕され続けます。
もうそれだけで、充分に信じ合って好いように思います。

また、どんなに重い障害を背負っていようとも、人間としての優しさをそのまま表してくれるような、素敵な笑顔を振りまいてくれる子どもたちや人たちがいます。
ぼくは、これだけでも、充分に人間としての可能性や存在価値を認め合い、信じ続けて好いように思うのです。

「それじゃあ、人殺しをしてしまったような、少年や少女も信じられるというのかい?」と、問い返したくなる方も居られるでしょう?
そのような方には、このようにお答えしたいと思います。

「そのような少年だって、少女だって、誰一人として、好き好んでそのような心理状態に追い込まれていったのではないはず。彼らだって、心の奥底には、きっと、自分を愛したい信じたい、人を愛したい信じたい、人から愛されたい信じられたい、ありのままの自分を、好いところも悪いところも丸ごと受け止めて欲しい・・・・と、切望し続けている一人の人間なのだと思う。ただ、そんな風に追い込まれるまでの間に、自分の心の奥底の大切な気持ちに気付かせてもらえるような出会いが無かっただけ。だから、この同じ少年や少女が、そのような人との出会いを体験していたならば、いや、これからだって体験することができるならば、必ず、人としての温かな心を回復することのできる存在なんだ」と・・・・。

そのような意味でも、ぼくは、全ての子どもたち、そして人間は、最終的に信じることができる存在だと、信じています。

子育ては、後手後手で好い!?

こんばんは。
久々の書き込み、本当に恐縮です。

今日は、『子育ては、後手後手で好い』というテーマで、記してみます。

このように記すと、読者の皆様の中には、「なんて、無責任なことを言うんだ!」と、憤りを感じられる方もおられると思います。
「子育てにしても、教育にしても、親がしっかりとヴィジョンを持って、子どもがより幸福を手に入れやすいように、先手先手に導いてあげることこそが大切ではないか!」と・・・。

でも、そのように、先手先手で子育てされることや教育されることは、される側の子どもたちにとって、果たして、本当に幸福と言えるでしょうか?

ぼくは、どうしてもそう思えないんです。

子どもたちは、まず、自らの足で歩きたがっている。
歩いてみて自分の目標にたどり着けるのか、それとも途中でつまづき転んでしまうのか、自分で体験したがっているのではないかと思うのです。

この現代を造り上げてきた、我々親の世代。
その現代に誇りを持って、「どうだ、この世の中を造ってきたのは、お父さん、お母さんなのだけれど、こんなに素晴らしく幸福に満ちた世界になってきているだろう?」と、胸を張って子ども達に伝えられる親がどれだけいるでしょうか?

確かに、物には満たされるようになってきた。組織や社会のシステムを築き上げてきた。そうしたことに誇りを持って伝えされる人は、いるかもしれません。
しかし、その一方で、人間と人間の関係は、どんどん希薄になり、バーチャル(仮想現実)的になり、そんな希薄さやバーチャルさが変に普通に成り過ぎています。

その中で、人々は、互いを信じ合うことよりも、疑い合い警戒し合うことを優先させてしまわざるを得なくなってきています。
プライバシーの保護、個人情報保護法などの名の下に、仲間同士の名簿さえも作りづらくなり、連絡さえもとり辛くなってきています。

そうかと思うの、エコだのなんだのと流行に追われるかのようなキャンペーンが為されている一方、不要なダイレクトメールはひっきりなしに届き、24時間営業の工場や町並みは、明かりを煌々と点け続けてはばかりません。

ぼくたち大人が、「こんな風にしていったら、きっと本当の幸福に近づけるだろう」と夢見て作ってきた、現代日本社会。
その社会こそが、先手先手の教育路線に乗っかった、エリート偏重の社会運営の歪となって現れている気がしてなりません。

しかし、どうでしょう。
そんな私たち一人ひとりの人生も、歩んで見なければ分からないようなことが沢山あり、実際に歩まずにいられなかった。
歩んでみて初めて、「個人の尊厳」を大切にしようとする真の幸福への方向と、自分勝手経済の隆盛による不幸せの方向が、露になってきていることに気付かされてきているのだと思います。

真実としての現実を受け止めて、その現実を元に再度、より理想的な社会の実現を模索しようとしています。
先手先手に、幸福への道という確かなレールがあり、それを敷設していきさえすればいいのではなく、現実という枕木の一つひとつの重さを確かめながら、後手後手に次のレールを敷いていく。
それも、「確かに、幸せへと導かれるのか?」と、どこかで自信暗鬼になりながらも、敷設していくしかないのです。

子育てにおいては、すでに子どもが命を授かってから、親とは違うレールを敷設し走り始めているその走りを見守りながら、自ら留まったり、行き詰ったりした時にだけ、それこそ後手後手でも好いので、力を貸し、助言をし、励まし、寄り添い、選択肢を用意しながら、次の枕木とレールの敷設を手伝ってあげることしかできないんだと思います。
言葉を換えれば、「転ばぬ先の杖」になるのではなく、転んでも傷ついても、自らにそこから立ち上がろうとする、子ども自身が必要とする松葉杖のような存在であるのが、親の役目ではないかと思います。

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